うちわの起源は古く、中国から伝わったとされていますが、日本ではすでに正倉院などに遺品として残り、万葉集にもうたわれています。うちわは風をおこして涼しくするために用いられるものですが、ほかに太陽の光を防いだり、チリやホコリをさけたり、祭りなどの儀礼的なことにも使われます。また、奈良・平安時代の貴族達の間では、顔をかくしたりする装飾品としても使われました。

江戸時代になると、竹細工や紙漉きが盛んになり、うちわが大量に作られ、広く普及していきました。有名な産地として、四国地方の丸亀、近畿地方の奈良・京都、関東地方の江戸があります。特に、江戸を中心とした「江戸うちわ」は、浮世絵や木版摺りの技術を取り入れて、歌舞伎役者の似顔絵や美人画、風景画などを描いた「絵うちわ」として広まりました。絹を貼ったもの、たまご型や楕円形のものなど、様々に発達しました。反故紙(ほごし)や柿渋(かきしぶ)を塗った実用的なうちわに対し、「絵うちわ」は小粋な夏の風物となり、江戸の女性の装飾品のひとつにもなったのです。

この江戸うちわに使う原材料の産地となっていたのが、房州(千葉県安房(あわ)地方)でした。この地方の女竹(めだけ)は節間が長く、柔軟性に富む良材でうちわの骨にたいへん具合のよいものでした。これを集め、船で江戸に送る中心地となっていたのが房州の船形(ふなかた/館山市)だったのです。

明治23年、那古(なご/館山市)に住む忍足信太郎は、女竹を割いてササラのようにした「うちわ骨」を作る技術を地元で広めました。そして、明治30年には同じ町の岩城庄吉が本格的にはじめ、うちわ骨の大量生産・大量出荷に成功しました。大正初年には技術も向上し、骨を編んで広げるまでの加工ができるようになったといいます。

完成品のうちわが作られるようになったのは、大正10年のことです。日本橋堀江町のうちわ問屋「松根屋」の横山寅吉は、材料の集荷先である船形に注目し、ここでの一貫生産を試みたのです。そして、大正12年には関東大震災が起こり、焼け出された江戸うちわの職人たちはこれをきっかけに、材料の得やすい船形周辺につぎつぎと移り住むようになったのです。この震災は房州のうちわ作りに大きな影響をもたらしました。



うちわの太田屋
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